理念を追い過ぎた御三家筆頭
徳川宗春 / 第七代尾張藩藩主
- 氏名
- 徳川宗春 / 尾張宰相
- 立場
- 御三家筆頭の尾張藩を代表するものとして、格下の紀州藩から将軍に就いた吉宗への対抗心があり、『温知政要』政策を展開
- 主な評価・業績
- 将軍職争奪レースに負けた尾張藩の恨みを表現するため、「質素倹約」を推し進める将軍とは真反対の政策を展開
- 「規則や規制は極力少ない方が民衆のためになる」とする治世方針を展開
- 名古屋発展の大功労者
◆ 有名な出来事・人物背景 ◆
- 尾張藩主就任の際の行列では、「顔を上げて行列を見守るように」という振れを出し、全身黒装束、漆黒の馬、ベッコウ製の帽子、虎が描かれた陣羽織を身に付けて登場し民衆の度肝を抜く
- 息子の節句に民衆を招き入れ、家康が尾張藩に贈った旗をきらびやかに飾り立てる
- 死去に伴って墓に入れられた守り刀は単なる木刀で、死んでもなお贅沢への反省の態度を取らされた
◆ 「三か条の詰問」 −最高権力者をバカにする− ◆
宗春が出版した書物『温知政要』の要点は無私・無欲・慈悲・忍耐です。
それらを具体的な形にしたものが以下の基本方針でした。
(どこでどう変換されたのか?少し矛盾していないか?といった思いはありますが、より大きな視点から考えられたものであったはずです)
- 自由を望むのは人の常。庶民を縛る法令はできるだけ少なくする
- 色欲や食欲を抑えるのは好ましくない
- 華美は天下の助けであって、度を過ぎた倹約は経済に逆効果をもたらすだけ
吉宗の政策を真っ向から批判し、城下に芝居小屋や遊郭を誘致するなど開放政策を実施して人気を博し、名古屋を活気みなぎる町に変貌させました。
当初は静観していた吉宗ですが、本来なら一致団結して将軍家を支えるべき存在の宗春にしびれをきらせて詰問状を送ります。
- 「国許ならともかくとして江戸においても遊び歩いている」
- 「尾張家が家康様から拝領した旗指物までも飾って庶民に披露した」
- 「国の基本方針である倹約令を守っていない」
これに対しての返答は以下のものでした
- 他の大名のように国許では遊び歩いて江戸では倹約するといった表裏ある行動は取れない。それに領民に迷惑をかけていない
- 家康から拝領した旗を飾る事を禁じる法はいつ出たのか?
- 私なりに倹約に努めている。そもそも将軍は倹約の要点が分かっていないではないか?
「生産」「残す」「倹約」「縮小」を政策の基本とした徳川吉宗に対し、「消費」「使う」「支出」「拡大」をもって経済を発展させようとした徳川宗春でした。
バブルの後処理に苦労した現代日本にも表れているように、「縮小」と「拡大」は交互に繰り返されるもので、どちらが正しい正しくないの問題ではありません。
ただ、行き過ぎた消費はやはり問題が多く、次第に金が無くなって立ち往かなくなり、
「国主にふさわしくない」との理由で隠居謹慎を命じられ、当時40代半ばであった宗春はその後の長い人生を大きな制限を受けつつ過ごしました。
死後もその墓には長く金網が掛けられ、大きな罪を犯した罪人に対するもの以上の扱いを受けてしまいました。
◆ 徳川宗春の仕事のやり方、取り組み方 ◆
やりたいように思いのままに仕事をする事には誰しも憧れます。
全国で2〜3番目に偉い立場にあれば思いのままに仕事をする事が当たり前の事であったはずで、自分の理念や理論に絶対の自信を持っていれば更に増幅された事でしょう。
歴史上将軍に面と向かって楯突いた部下は他には居らず、ある種の痛快さは感じさせるのですが、その行動全般の中にもの事の機微を知らないお坊ちゃまの風情が漂います。(人を頼らず我が道を行く ストレートに欲求を表現)
『三か条の詰問』への返答の中に見て取れるのは、
「正直でありたい。ルールには従っている。自分なりの理念を持っての行動だ」といった思いですが、これを受け取る最高権力者の心の中に生み出される感情を思い測っていたのなら決して吐かれる類の言葉ではありません。残念ながら幕府全体からみれば組織不適格・不適応者のものです。
こういった言動には尾張でのそれまでの実績や結果を誇る気持ちが働いていた事が予想されます。
やる気に満ち満ちた宗春が、彼なりに深く考えた末の政策が拡大・消費政策でしたが、それを実行するにあたっては葛藤や躊躇もあった事でしょう。
失敗を覚悟の上でトライアンドエラーを繰り返し、民衆にとってのよりよい治政を提供する事を目指していたのではないかと思います。(チャレンジを繰り返す)
宗春が取るべきだった仕事への取り組み方は沢山ありますが、特に口を閉ざして主張しない 人の感情を汲み取る 引くべき時は退く などが惜しまれます。
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